昭和50年03月06日 朝の御理解



 御神訓 一、「信心は家内に不和のなきが元なり。」

 信心のない家庭であり、ありましても不和がないと言う事はやっぱり、元になる事で御座います。まして信心を頂いておる家庭で、ね、本当に教えを頂いてぇ、信心生活が出けておるならば、家庭に不和の無きがあろうはずはありません、いや不和が無いと云うだけではありません、もう本当に家庭皆んなが拝み合うた信心生活が出来る筈です。私は家内に不和の無きが元と言うのは、ただぁ争いなどがあると云うのではない。
 唯その不和が無いと云うだけではなくてぇ拝み合うて行けれる所まで、行かなければいけないと言う事だと思うです。ただ信心をしておるから言いたい事も言わずに辛抱しておるとか、目に余る事があるけれども、まあここば信心で受けて行くとがぁ信心じゃろうと、言った様な事ではおかげにならない、ね。拝み合うて行くと言う所まで、お互い信心が高められて行かなければならない、それが本当の不和のない元だなぁとこう思うんです。それにはどうしても家族中が勢を揃えた信心をしなければならない。
 「九つこぞってあそばえ、勢信心の徳を受けよ」と、その勢信心の徳を受けて行くと言う様な、有り方にならなきゃならない、矢張りあのう拝み合うた生き方拝み合いの生活、そういう生活からでなければ、あぁ神徳は勢信心の徳を受けよと言う事には成って来ないです。ね。唯信心しておるから辛抱しようておると、言う様な事では本当の家の徳と言う事にはならん「とんを徳受け家繁盛」「子孫繁盛有り難し」と言う様な事には成って来ない、ですから此の辺の所を一つう信心を頂いて参りますとね。
 私は昨日から仕切に思う事で御座いますけれど、私の様なぁ人間と申しましょうか、私の様な者に神様がどうして、色々お知らせを下さったりするだろうかと言う事です、そこ辺の例えば関わり合いと云うか、天っ天地と私との関わり合いと云う物が、それは天地が親がっ親であり、私共はぁ子供であり親と子が交流するのは当たり前だと、言えばもうそれまでですけれども。
 うんならそれであるけれどもうんなら、神様からお知らせを頂くと云った様な事は、その誰でもではない、ね、片島せんという女の先生見たいに徳を受けられた先生に、神様がある時に「世界中の氏子に話がして見たい」と神様が仰った「けれども聞く耳を持たんからせんなし」と、その聞く耳というのをです、なら私は持っておるからだどうかと。この辺の所がもう不思議で不思議で堪らない、ね、
 もう本当にどう言う様な関係になったら、こう云うおかげが頂かれるだろうかと、そこで私が昨日から思わして頂くのは、こう云うおかげの頂けれる為に私が身に付けて来た信心、私が成して来た修行、そう云うなら信心をですどうでも人に伝えて行かなければ、神様に対して相済まん、そう言う責任をです私は仕切に昨日感じました。そしてなら私が頂いておるおかげ、ね、心の状態は、まあ言うならば何時も有り難い、しかもその有り難いという心には、もうそれこそ限りないおかげが何時も伴うておる。
 昨日もう親教会でぇ会合がありますから、行かんならん事になっとりました。そう言う事をお願いさして頂いておりましたら「故」例えば亡くなった人の事を「故」と申しますね、故な誰々とこう書く故と書いて次に、名前をまだ書いてはないけれども、故何々と言う様な、あのじょうっあのうお知らせを頂きますから、ははぁ故と言う事はあの亡くなると言う事じゃから、今日の会合は無くなるなとこう思うたんです、ね。
 それでもうまあ念の為に電話を掛けて見ろうと思うて、此処から電話を掛けさせましたらぁあのう角家に往生人があったと、死人があったとそれでそのうこちらから今日の会合は取り止めっち言う風な電話を掛け様と思っておるとこであったどうも済みませんと言うていうそのな電話が返って来た。こりゃまあ何時もの事ですけれどもですもう神様がこう先取りをさして下さると言うか、もう前々からちゃんとこうお知らせ下さったりすると言う事がね、もう不思議で不思議で私は毎日不思議で不思議で堪らんです。
 そしてなら昨日私は仕切りに思う事は、どうして私にだけ神様がこういうお知らせを下さるかと言う事なんです、ね。そういう例えばならお知らせでも、受けさして頂いての信心ですから、段々勿論有り難くも成って行くし、ね、おかげを此の様に受けておるのですから、そういうおかげを受けられる信心と言う物を、人に本当に解って貰え伝えて行く、そしてその人も幸せになって貰わなければならない責任をね、私は感ずる、で其処でなら皆さんの場合でもそうです、ね。
 なら皆さんでも合楽に御神縁を頂いたと言う事が本当に有り難い、ね、だからその本当に有り難いと思うておるならばです、その有り難いものを人に伝えて行かなければ、神様に対しても相済まんと言う様な、責任を感じる位なおかげは頂いてもらたい、信心をしてもらそういう信心をしてもらたいとこう思います。たぁだ自分だけが悦に行っておるというだけはなくてです。ね。
 そこまで私は信心を進めて参りませんと、唯不和の無きが元というだけで、ね、本当に拝み合うて行けれると言うか、唯こっとるとん言わん家の中が本当に、大きな声一つ立てん聞いた事はないと云う様な家庭と言うだけでは無くてです、それをもう一つまあ上回ったという信心、ね。言うならば拝み合うて行けれる、唯仲が良いというだけではなくて、拝み合うて行くという信心、ね、しかも家族中がそういう、ね。
 相手に不足とか不平所ではない、唯じっと辛抱しとくというだけではない、もう本当に拝まなければ居られない同士の家庭でありたい、そういう家庭を私共が頂いて、それを自分の周辺の人達にも伝えて行かなければ居られない信心、いや其処にこういうおかげを自分だけが頂いておってはもっ、勿体無いから人にも伝えて行かなければ居れない責任を感ずる位な、一つおかげを頂いて貰わにゃん。
 昨日熊谷さんがお届けされますのに、先日から(ダイゴウバル?)に、姉さんが居られます、ご親戚が大変なあちら物持ちです。御養子さんが八幡へ行っておられますがもう、御長男は二番目か私と村友達ですから、偉いお坊さんになっておられます。その位ですからもう家中上げて、非常に熱心な仏教信者です。ですからそう言う方ん所から養子さんが見えとりますから、その御養子さんがもう真から仏様を拝みなさる、ね。
 おかげで家は仏様ば本当に真から拝むから、まあ大した事もない、言わば幸せそのものだと、という話しをなさったそうですから、ほんなこつのご先祖さんの家中で一生懸命、その大事にするというだけでんそがしこおかげ頂くからね、是がもう一つ上の親神様を拝まして頂くごつなりゃ、お徳を受けるばってんのという話をしたと言うのです。ね。その先祖を大事にするというだけでも、言うならば家庭に不和があっては出けるこっちゃありません、家中の者が先祖を拝む位ですから円満でしょう。ね。
 先祖を大事にする、親を大事にするというのですから、ね、そのまあおかげは頂くけれどももう一つ上の親、言うなら天地の親神様ばそうして真から拝む、先祖のおかげで先祖のう、おかげで今日の自分方の家があると云う様に、感謝のを捧げる生活するならば確かにおかげは頂きます。商売しよるなら商売も繁盛するです、そういう風なら、ね。けれどもお道の信心はもう一つ向こうの、親先祖も大事にすると同時に、天地の親神様の御働きに神恩報謝を感ずる生活、天地の親神様を大事にする生き方。
 そういう生き方になって来ると徳を受けるけれどもねと言うて、金光様のお話をさして頂いたという話しをなさっとられます。間違いなしそうです。ね。だからご先祖様を一家中で拝むというだけでも家庭は円満になるでしょうけれども、それでんならお徳を受けると言う事はない、ね、それこそ「心つくろって朝参り、勢信心の徳を受ける」と言う事は矢張り天地っ、金光大神を通して天地の親神様を拝まして貰う、天地の心が解って天地の心に添うた生き方をさして貰うと、言う所からしかお徳は受けられない。
 そういう信心をさせて頂いておってもです、家ん中が拝み合い所か、お互いが辛抱し合わなければならない様な、と言う事はいかにお互いの皆の信心がです、天地の親神様の心が解って心に添う生き方ではなくて、唯おかげ頂きたいおかげ頂きたいで、お参りして来とるかと言う事が解るです。それでは言わば本当の拝み合いの信心なんかは生まれて来ないです、それはわざわざ合楽まで参って来んでん、それこそ親先祖の言うなら、もうそれこそ毎日家のご仏壇を一生懸命家族中の者で拝む様な生き方の方が、ね、
 それこそ時間も要らんしお初穂も要らんし、ね、その方が返って良い位です。ね。私は其処ん所をもう一つ抜けた信心と言う事がです、私は本当の意味においての、家庭に不和のなきが元と云う様な元を頂けれる、それは唯家庭が円満と言うだけではない、言うなら天地の親神様の心が解っての生き方の中にはです、拝み合うて行かなければ居れないものが生まれて来る、ね。
 それを人にも伝えて行こうという、言うなら責任を感ずる位の信心をさして貰った時にです、私はね勢信心の徳と言うか、家庭円満の徳と言うか、そういうおかげが受けられると思うんです。ね。天地の親神様のご恩徳に浴すると言う事、天地の親神様のご恩徳を感じて、その徳を自分の身にも受けて行くという信心は、その辺の所の信心がこうはっきりしなきゃいけない、是は先ず皆んなその結局おかげおかげと。
 言う事になりますから、天地の親神様のおかげを頂きながら。唯おかげを頂くだけで御恩徳に触れて行けないという感じが致します。天地の親神様に本当にお礼の申し上げれれる信心とは、ね、今日私が皆さんに聞いて頂いた様な所のです、不和のあるがない不和がないと言うだけではなくてです、拝み合うて行けれる様な信心からしか、天地に対する所謂御恩徳に対して報いて行く、本当の生活は出けないと思う。
 昨日は昨夜、夜の御祈念に合わせて佐田さん所の奥さんのお父さんの、帰幽日であった、所謂お立ち日です。それに当時そこん番頭さんをしておられた方の、あの事故で亡くなられた、その方の事を昨日から仕切に思い出させて頂くから、その人の霊様にもうまあご挨拶をしてくれと言う事であった。言うなら佐田さんは日田からもう久留米の佐田さん、佐田家に嫁って来ておられるものである、親先祖はもうちゃっと日田の方でぇ守っておられるのである、ね。
 わざわざあちら中野って言うが、中野の家の方の霊さんまで、言うなら構わんでん良か訳である。けれどもお父さんの帰幽日ともなると、ご夫婦子供さん達まで一緒に出て見えて、それなりのお供えをさして貰うて、そして霊様へご挨拶をしてくれと言う事であった。普通ここに霊様はお願いしておられる、ね、例えば帰幽日なんかには、まあ言うならお神酒の一本もお供えさして貰うて、ね、
 唯あのう玉串も上げさして貰もうそれで良い、いやわざわざ此処に来んでも良い、今日はおじいちゃんの、日田の方のおじいちゃんの帰幽日だから、ね、お立ち日だから、ね、今日をおじいちゃんの好きな物でも作って、霊様にお供えをして、さあ一家中でその霊様にご挨拶をさして貰おうと、いうそれだけで良い、是が仏教であるならば、今日はおじいちゃんのお立ち日だから、ね。
 まあ甘辛でも用意さして貰うて、ね、今日は家中でその精進さして貰うたり、家中で霊様を拝まして貰おうという、それだけで言うならばまあ十分の感じである、わざわざ教会まで来て先生にそれをお取次ぎぃは願うとしましても、その言うなら拝んで貰わんでも良い感じである、ね、それでも矢張り時間を使い、しかも夫婦親子でぇ唯帰幽日というだけに、それだけの時間も掛ければ、言うならばお金も相当掛かってる。
 ②そのお取次ぎさして貰うて、御祈念さして頂いておりましたら、頂きます事がね、あのお盆に松露流しというのをやりますでしょう、丁度あの様に船を作ってね、久留米あたりでは皆んなやりますね、ここ辺は知りませんけどね、船を作ってそしてその中に、お下がりの果物とか野菜やらを一杯入れて、こう川に流すんです。そういう格好の所が木で作ってなくてから、藁で作ってあるんです、ね、丁度藁で作った船に一杯お野菜やらを入れて川にこう流す所を頂いた。
 所がそれが藁だもんですから、もうすぐ水がぶくぶくこう水に、あの川に沈んでしまう所を頂くんです。もう本当に今言う様に家で例えばうんなら、あぁ御霊神様に今日はおじいちゃんのお立ち日だから、ね、ぼた餅どん作ってからお供えさして貰うた、さあ今夜は皆で、あのー御霊神様の前でお礼さして貰おうだけでも、御霊様が喜ばれるだろう、それだけでも一家中が本当に円満の雰囲気と言う物がそこに生まれてくる、ね。
 それで言うならもう十分である。所がその今日のご理解は十二分の所の信心を今日は聞いて頂いたんです、ね、唯不和がないだけではなくて、拝み合うて行けれるお互いが信心しとるけん、グゥっと堪えて辛抱し合うて行くと言う様なものではなくて、一家中の者が拝み合うていけれると言う程しの信心、ね。それにはです、ね、言うならば天地の親神様へ対する所の、本当の神恩報謝の信心おかげば頂かんならんから神恩報謝を、ではなくてね、親の天地の親神様の事が解るから。
 解れば天地の親神様の御恩恵に対して、神恩報謝の信心生活をさせて頂くならばです、必ず家に徳を受けるだろう、そういうねおかげを受けるとか、受けないというのじゃなくてもう一つ進んだ信心、拝み合うて行けれる程しの信心、天地に対するお礼を本当に純粋なお礼になる様な信心、ね。お願いをしておかげ頂いたからお供えしたと言う様なもんじゃなくて、ね、もう何時も自分の信心がそのまま天地に対して、お礼に現れて来ると言った様な信心、唯一家中が円満であるというだけじゃなくて。
 拝み合うて行けれる信心、そういう信心を一つ身に付けて行かなければならない。佐田さんの所のそうした霊様の、私ご挨拶をさして頂きながら、そういうお知らせを頂いた、ね、だからあの藁と言う事は、是は天地に対する還元という意味なんです、例えばお百姓さんがあの稲作を致しますね、それでお米はお百姓さんが取ってしまい、けれどもその殻だけ位は天地に返して行け、というのが還元ですね、神様はね田一反から十俵取れたから、十俵を取れたその十俵というお米は、ね。
 人間氏子に下さるのだと、けれどもその藁だけ位はその殻だけ位は、天地に返して行けと、だから言わば土地が何時も肥えておる訳なんです。ね。藁のお知らせはそういう還元の意味なんです、しかもそれで船を作って色んな物をそこへお供えをして流す、ね、それが沈んで行くと言う事は、言うならば、ね、川の中に沈んで行くと言う事は、もう天地に返って行っておるのである。
 その事を頂いてから、ははぁ言うならば、家でそれこそぼた餅ども作って、ね、お供えして、今日はおじいちゃんの帰幽日だから、お立ち日だからと言うて仏様の前にお供えをして、さあ今夜は皆仏様の前に集まって、お先祖に対するお礼でも言おう、そういう供養でもさせて頂こうで、言うならば十分なんです、だから、けれどもそれだけでの信心ではです、例えおかげは頂いてもお徳は受けられないというのである、ね。
 わざわざ合楽まで持って来て、しかも夫婦親子で出て来て、そして色々とお供え等をさして貰うて、そして神様にご挨拶をして貰う、霊様にお礼を申し上げると言う様なです生き方、もう是は言うならばそれだけが全部還元に、天地に対する還元と言う事になる、天地の親神様への本当の意味においてのお礼になるというのである、ね。そういう信心から生まれて来る所の、不和のなきが元「信心は家庭に不和のなきが元」ね。
 だから少しは例えば増しな信心、成程教祖生神金光大神様と唱える、天地金乃神様と言うて唱えて拝む、ね、そして今日もおかげを頂いて有り難う御座いますと言うて、神恩報謝の心も十分ある、ね、だからそれだけの信心でです、ね、よくよくそれを自分の検討して見ると、あれをも頂きたいどうでもおかげを頂きたい、と言う様なものがあったんではです、ね、あって悪い事はないけれどもね、それで例えば信心が続けられておると言う様な事では、お徳は受けられないというのである。
 それは信心はなかっても、ね、ご先祖ならご先祖様を一家中で真から拝む、先祖のおかげで先祖のおかげでと言うて、仏様を大事にする、それだけでもおかげを頂く、そこにはね一つの条件がないでしょう、例えば熊谷さんの所のご主人の、ね、仏さんば一生懸命拝んで、何か仏様からねだらにゃならん、貰わんならんと言う様なこっちゃないでしょう、唯ご先祖を大事にするというだけでしょう、それだけでもおかげは受ける、だからそのご先祖を大事にするだけではない。
 もう一つ上の天地の親神様ば大事にするならばお徳を受けるというのである。だからその天地の親神様を大事にする信心、所が多くの金光様の御信心は、成程天地金乃神様と拝みよるけれども、おかげば頂かんならんから拝みよるとでしょうが、ねだらんなんからおかげをっ拝みよるとでしょうが、だからおかげは頂いてもお徳にはならんと、丁度先祖を大事にするより、天地の親神様をです。
 家族中で大事する信心をさして頂くならです、ね、それを私はもう一歩前進した、本当の意味においての家庭に不和がないだけではなくて、拝み合うていけれる信心は、そういう信心からしか生まれて来ないのだという風に思うです。またそういう信心を頂いて家に徳を受けて、おかげを受けて行く所にです、ね、そのおかげを自分だけで、一人締めにしてはならない、こういう家族が状態なら自分の心の状態でこう言う事になれば、こういうおかげが受けれらると言う事を、人にも伝えなければおれない。
 言うならばおかげを頂いておる者の責任としてです、ね、人にも伝えて行く言うならば、本当の意味においての合楽示現活動が、させて貰わなければおられないと言う事になるのじゃないでしょうか。皆さんの信心をもう一遍検討して見て、本当に天地の親神様が解って、その天地の親神様を大事にしなければおられない、という信心を目指さなければならんと言う事を、今日は聞いて頂いたんですね。
 皆さんも拝みなさりよるでしょうが、生神金光大神、天地金乃神様と拝みよるけれどもです、それには必ずね唯大事にしよるとじゃない、唯拝みよるとは「是ばあれも下さい、これをこうして下さい」っちいう思いがあるから、拝みよるとである、ね。だからそれで、そういう拝み方はいけないというのじゃなくてです、ね、天地の親神様をです所謂、御先祖をいや信心がなくても、御先祖を大事にすれば家が円満で、ね。
 家庭がまあ言うならば、順調に調子が出て来る様なおかげが頂かれると同じ様にです、なら天地の親神様を大事にして拝んで行くならばです、それはお徳を受ける、ね。唯のおかげではない家中に徳を受けて行く、家に徳が出けて来る、ね、その徳が出けて来る様な信心をしなければいけない、と言うてうんならお願いをしてはならんかじゃないですよ、そりゃ痛ければ痛い、痒ければ痒いでお願いをしなければなりません、金銭のお繰り合せも願わにゃおられません。
 けれども親を大事にしなければおられないという信心、天地の親神大事にしなければおられない信心を頂いての、願いでなからにゃいかんというのです。ね。唯天地金乃神様と、御神号をお唱えしておるけれども、おかげば頂かんならんから拝みよるとと、いうだけではお徳にはならないと、ね。まあ繰り返し今日は其処ん所を聞いて頂きましたがです、ね、愈々天地の親神様の御心が分かって、その御心に対し。
 御心に対し奉る生き方「神の心の反した生き方から、神意に添う生き方に変ることを改まるという」というこれは十日程前の御理解でしたかね、神の心にです、ね、反した生き方唯おかげば頂かんならんから拝みよるという神様は、神の心に反した信心です、ね、だから神の心に反した生き方から、神意に添う神様の心に添う生き方、ね、神様の心に添う生き方こそです、私は神様を大事にする。
 神様を拝む大事にした拝み方だとこう思うです、神様の心に反しながら唯おかげば頂かんならんから拝んでおるという神様とは全然違うです、ね、御神意に添うて行くという、生き方を愈々身に付けれなければならん、そこにはね必ず一切を拝めれる信心が生まれて来る、それが本当の神恩報謝なんです、それは物だけではない、金だけではない、ね、言うなら相対しておる物の全てに合掌する心が生まれて来る。
 御神意に対して御神意に添う生き方と言う事はそう言う事なんです。ね。そういう信心が私は身に家に付いて初めて、ね、あちらは不和、不和のない家庭だという時にはもう不和がないと言うだけではなくて、一家中が拝み合うた信心が生活が出ける様になる、そういう信心を私は此処では教えて居られると思います「信心は家内に不和のなきが元である」それはただ辛抱し合うておくというのではなくて。
 拝み合うて行けると言う所まで信心を高めなければならない。拝み合うて行けれるその根本になる物は、親を大事にすると言う事であると同時にです、天地の親神様を大事にすると言う事だけではぁ事であってです、ね、それは御神意を対して行くと言う事、御神意を分かり御神意にお応えして行くという生き方からしか、生まっ拝み合うと言った様な事は生まれて来ないと言う事であります。
    どうぞ。